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※この記事は2026年11月時点で公開されているインタビューや報道をもとに書いています。最新の情報は本人の発信や公式発表でご確認ください。
パリ2024パラリンピックで、競泳の金メダルを2つ手にした木村敬一(きむら けいいち)さん。東京2020に続く金メダルで、パラリンピックのメダルは通算10個になりました。
でも、最初から勝ち続けてきたわけではありません。2歳で視力を失い、ロンドンとリオで合わせて6つのメダルを取っても、金メダルにだけは届きませんでした。
この記事では、木村敬一さんのプロフィール、金メダルまでの道のり、そして「不屈の精神」を支えた母や恩師・コーチの存在を、本人の言葉と報道をもとに紹介します。著書(本)や講演の活動もあわせてまとめました。
木村敬一のプロフィール
| 名前 | 木村敬一(きむら けいいち) |
| 生年月日 | 1990年9月11日 |
| 出身 | 滋賀県(栗東市) |
| 競技 | パラ競泳(視覚障害のクラス S11 など) |
| 障害 | 2歳のときに先天性の病気のため視力を失う(全盲) |
| 学歴 | 滋賀県立盲学校 → 筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校) → 日本大学文理学部教育学科 → 日本大学大学院 文学研究科 教育学専攻 博士前期課程修了(2015年) |
| 所属 | 東京ガス株式会社 |
| パラリンピック | 2008年北京大会から5大会連続出場 |
| 主なメダル | ロンドン2012:銀1・銅1/リオ2016:銀2・銅2/東京2020:金1・銀1/パリ2024:金2(通算10個) |
| 著書 | 『闇を泳ぐ』(ミライカナイ)、『壁を超えるマインドセット』(プレジデント社) |
2歳で視力を失い、6歳から寄宿舎へ
木村さんは1990年、滋賀県で生まれました。著書では、2歳4カ月で最初の手術を受け、3度の入院で計7回の手術を受けたことが語られています。病院の先生からは「敬一君は、盲児として育ててください」と告げられたそうです。
両親は、木村さんを盲児として育てると決めました。6歳で滋賀県立盲学校の小学部に入ると同時に、寄宿舎での生活が始まります。母の正美さんは、子育て情報サイトの取材でこう振り返っています。
「6歳の我が子を親元から離して、生活させなければならなかったことは、断腸の思いでした。」
一方で、木村さん本人は同じ記事で、見えないことに疑問を感じたことも、怖いと思ったこともないと話しています。姉の助けを借りて野山を走り回り、鈴の入ったボールで「野球」に夢中になる、活発な子どもだったことが著書で紹介されています。
メダルを重ねても届かなかった金メダル
小学4年生で水泳と出会う
水泳を始めたのは小学4年生のとき。母の勧めでした。中学からは単身で上京し、筑波大学附属盲学校の水泳部へ。ここで恩師の寺西真人さんと出会います。
北京で初出場、ロンドン・リオでメダル6個
2008年の北京大会でパラリンピックに初出場。2012年のロンドン大会では100m平泳ぎで銀、100mバタフライで銅メダルを獲得しました。
2016年のリオ大会では、50m自由形と100mバタフライで銀、100m平泳ぎと100m自由形で銅。4つのメダルは日本選手として最多だと紹介されています。それでも、目標だった金メダルには届きませんでした。木村さんはリオを、初めて自分の目標が達成できなかった大会だったと振り返っています(スポーツナビの取材より)。
さらに木村さんは、リオの後にある「ショック」に気づいたと話しています。
「僕は、水泳選手というものになる前に、メダリストになってしまった。」
同じ記事では、次の4年間を乗り切る自信がなかったとも語っています。
どう乗り越えたか|単身渡米、そして東京・パリで金メダル
英語も話せないまま、アメリカへ
2018年2月、木村さんはアメリカ東海岸のボルチモアに拠点を移しました。英語も話せず、知り合いもいない中での単身渡米だったと紹介されています。ライバルだったアメリカのブラッドリー・スナイダー選手にSNSで連絡を取ったことが、きっかけの一つでした。
「これはもう練習環境から変えなければならないと決心し、アメリカに渡りました。」
ただ、本人は当時を「攻めた選択というより、逃げ出すような選択だったと思います」とも振り返っています(パラサポWEB、2020年9月)。それでも、アメリカでの2年間は日々成長を感じられて楽しかったと話しています。コロナ禍の2020年3月に帰国し、日本で東京大会に向けた調整を続けました。
東京2020、4大会目で悲願の金メダル
2021年の東京2020パラリンピック。木村さんは100m平泳ぎで銀メダルを取り、大会最終日の100mバタフライ(S11)決勝で優勝しました。2位は、ともに練習を重ねてきたライバルの富田宇宙選手。日本選手の1位・2位でした。
ゴール後、タッパーの寺西真人さんからタイムと金メダルを伝えられた木村さん。そのときの気持ちをこう語っています。
「それを聞いて、一つのチャレンジが終わったんだなと思いました」
パリ2024では金メダル2冠
パリ2024パラリンピックでは、50m自由形(S11)で金メダル。さらに100mバタフライ(S11)でもパラリンピック新記録で金メダルを取り、この種目で2連覇を果たしました。パリでは、五輪メダリストの星奈津美さんにコーチを依頼したと報じられています。
木村敬一の不屈の精神はどこから来たのか
源1:母の「何でもやってみた」育て方
母の正美さんは、色を「赤いリンゴ、緑のピーマン」のように言葉で伝え、雲は綿を触らせて教えたと紹介されています。水泳を勧めたのも、運動量が足りないことを心配したから。プールなら転んだり迷子になったりする心配が少ない、と考えたそうです。
塩素で目が悪くならないかと心配した母に、木村さんは「僕の目は、もうこれ以上悪くならないよ」と話したといいます。
「敬一に決断力と行動力があるのは、幼いころから『何でもやってみた』からではないかと思います。」
父の稔さんも、Numberの取材で「『見る』というきっかけがない敬一に私が『楽しそうやな』と思ったものを提案し、いろいろやってきた」と語っています。寄宿舎では、手作りの盤で将棋にも挑戦したそうです。
源2:恩師でありタッパーの寺西真人さん
寺西真人さんは、木村さんが筑波大学附属盲学校の中等部2年のときから、水泳部で指導を始めた先生です。中学2年からは寺西さんの勧めで、高校生や五輪経験者と同じ環境で練習するようになったと紹介されています。
寺西さんは、レースでは「タッパー」を務めました。タッパーは、先にスポンジのついた棒で選手の頭や体をたたき、ターンやゴールの壁が近いことを知らせる役目です。2020年、木村さんがアメリカから戻ると、寺西さんは支えるために教員を退職したと報じられています。
「木村の気が緩まないようぎりぎりまで壁に引き付けてから背中を思いっきり叩いたので、タッピング棒がポッキリ折れちゃいました。」
源3:刺激し続けてくれたライバルの存在
東京2020の100mバタフライで2位だった富田宇宙選手について、木村さんはレース後にこう話しています。
「常に刺激し続けてくれた宇宙さんの存在は、今日、僕が戦う上でなくてはならなかった。」
源4:失敗を「ネタ」にする考え方
言葉も通じないアメリカでの生活について、木村さんはファッション誌のインタビューで、失敗を前向きに受け止めていたと話しています。
「失敗しても『あ、これはネタになるな』と思っていましたし、いろいろな人と話をすることで、いろんな考えを吸収したいんです。」
日本スポーツ振興センターのインタビューでも、「今何でこんなふうになっているのだろう」と嘆くより「どうすれば良いんだろうな」と考える、と語っています。こうした考え方の習慣も、挑戦を続ける力の一つになっているとも考えられます。
木村敬一に学ぶ、真似できる3つの突破法
1. 行き詰まったら「環境」ごと変える
リオの後、木村さんは練習環境から変えると決めてアメリカへ渡りました。自分の努力だけで足りないと感じたら、場所や人を変えてみる。転職や引っ越しのような大きな決断でなくても、通う場所や相談する相手を変えるだけで景色は変わります。
2. 「なぜ」より「どうすれば」を考える
嘆くより、どうすれば良いかを考える。木村さんの言葉は、つらいときほど役に立ちます。うまくいかない日は、「次にできる小さな一歩は何か」を一つだけ書き出してみましょう。
3. 失敗を「ネタ」として持ち帰る
失敗しても「これはネタになる」と受け止める。そう考えると、挑戦のハードルがぐっと下がります。失敗した日は、人に話せる「笑える話」に変えてみるのも一つの方法です。
木村敬一の本と講演
木村さんは、学校の教員研修会などで講演も行っています。考え方をじっくり知りたい人には、本人の著書がおすすめです。
『闇を泳ぐ 全盲スイマー、自分を超えて世界に挑む。』
木村敬一さんの著書(ミライカナイ、2021年)。小学4年生で水泳を始めてから、北京・ロンドン・リオ、そしてアメリカへ拠点を移すまでの約30年をたどった半生の記録です。
『壁を超えるマインドセット 尖らない生き方のすすめ』
木村敬一さんの著書(プレジデント社、2024年)。金メダルを取ってもなお泳ぎ続ける理由と、困難にぶつかっても肩ひじ張らずに生きるための「自然体思考」が語られています。
価格・在庫は各ショップの商品ページでご確認ください。
木村敬一の金メダルの瞬間を見る(公式動画)
まとめ
- 木村敬一さんは2歳で視力を失い、6歳から盲学校の寄宿舎で暮らしながら育った
- ロンドン・リオで6つのメダルを取っても金メダルには届かず、2018年に単身でアメリカへ渡った
- 東京2020の100mバタフライで悲願の金メダル。パリ2024では50m自由形と100mバタフライで2冠
- 母の「何でもやってみた」育て方、恩師でタッパーの寺西真人さん、ライバルの存在が挑戦を支えた
金メダルに届かなかった時期、木村さんは自分を「逃げ出すような選択」をしたと振り返っています。それでも、その選択が東京とパリの金メダルにつながりました。うまくいかないときは、場所を変えてもいい。失敗はネタにすればいい。木村さんの歩みは、そう教えてくれます。
関連記事


参考にした資料
- 東京ガス「全盲のスイマー木村敬一の挑戦」
- 滋賀県(パリ2024パラリンピック 木村敬一選手の金メダル)
- PRESIDENT Online(2024年9月)『壁を超えるマインドセット』より
- KIDSNA STYLE(2021年8月)パラ水泳・木村敬一と母が語る軌跡
- Number Web(2021年10月)金メダリストの両親は「教育論」を語りません
- パラスポーツマガジン(2024年3月)
- パラサポWEB(2020年9月)
- パラサポWEB(2021年9月)
- スポーツナビ(Yahoo! JAPAN)
- 学研 with Sports 寺西真人さん
- OCEANS(2021年11月)
- 日本大学新聞ONLINE(2025年1月)
- 日本スポーツ振興センター Athlete Pathway インタビュー
- 筑波大学附属学校 教員研修会資料(2022年)
