人間は、自分が思っているほど合理的ではありません。
私たちは毎日、無数の判断をしています。何を買うか。誰を信用するか。どの仕事を選ぶか。投資を続けるか、やめるか。
そして、その多くを自分の意思で合理的に決めていると思っています。しかし、もしその判断の大部分が、本人も気づかない思考の癖によって左右されているとしたら、どうでしょうか。
今回、突破ラボが紹介するのは、心理学者でノーベル経済学賞受賞者のダニエル・カーネマンによる『ファスト&スロー』です。本書は、人間の判断や意思決定に潜む偏りを、数多くの心理学研究を通して解き明かします。
人間の頭には二つの思考がある
カーネマンは、人間の思考を説明するために、二つのシステムという枠組みを用います。
一つは、素早く、自動的に働く「システム1」。もう一つは、注意と努力を必要とする「システム2」です。
例えば、次の計算を考えてみてください。
2+2=?
答えは、ほとんど考えなくても浮かぶでしょう。一方で、17×24=? こちらは、少し時間をかけて計算する必要があります。
前者のような直感的な処理をシステム1、後者のような意識的な処理をシステム2として説明します。ただし、これは脳の中に独立した二つの器官があるという意味ではなく、人間の思考の働きを理解するためのモデルです。
システム1は非常に便利です。私たちは、日常生活のあらゆる場面で素早い判断を必要としています。しかし、その素早さには弱点があります。
直感は、正しいときもあれば、驚くほど簡単に間違えることもあるのです。
人間は、見たいものを見てしまう
人間の判断を歪める代表的な現象の一つが、確証バイアスです。自分が正しいと思っている考えを支持する情報ばかり集め、反対する情報を軽視してしまう傾向です。
例えば、ある会社の株価が上がると信じている人がいるとします。その人は、企業の成長を示すニュースには強く反応します。一方で、業績悪化や競争激化を示す情報については、一時的な問題だと考えるかもしれません。
本人は客観的に分析しているつもりでも、実際には最初に出した結論を守るために情報を選別している可能性があります。
これは投資に限りません。経営者が自分の事業計画に固執するとき。人間関係で相手への第一印象を変えられないとき。過去の失敗について、自分に都合のよい理由だけを探してしまうとき。
私たちの思考には、すでに信じている物語を補強しようとする働きがあります。
人間は、事実を見て判断するだけでなく、自分の判断に合う事実を探してしまうのです。
損失は、利益よりも大きく感じられる
本書の重要なテーマの一つが、損失回避です。人間は、同じ金額の利益を得る喜びよりも、損失を被る苦痛を強く感じる傾向があります。
例えば、10万円を得ることと、10万円を失うことを考えてみてください。一般に、10万円を失うことの心理的な衝撃は、10万円を得る喜びより大きくなりやすいとされています。
この傾向は、投資判断に大きな影響を与えます。利益が出ている株は、値下がりする前に売りたくなる。反対に、損失が出ている株は、損失を確定させたくないために持ち続けてしまう。
もちろん、すべての投資家がこのように行動するわけではありません。しかし、損失を認めることへの抵抗が、合理的な判断を妨げる場合があります。
ここで重要なのは、損失を避けようとする心理そのものが、さらに大きな損失を生むことがあるという点です。
なぜ経営者は撤退できないのか
事業を始めるとき、人は成功する未来を思い描きます。市場は拡大する。顧客は増える。売上は伸びる。
しかし、現実が予想と違う方向に進んだ場合、経営者は難しい判断を迫られます。事業を続けるのか。規模を縮小するのか。撤退するのか。
ここで判断を難しくするのが、過去に投じた資金や時間への執着です。
「ここまで投資したのだから、今さらやめられない」「あと少し続ければ、状況が好転するはずだ」
こうした考え方には、サンクコスト、つまり回収できない過去の費用に引きずられる問題が関係しています。
本来、これからの経営判断は、過去にいくら使ったかではなく、今後どのような結果が見込まれるかによって考える必要があります。しかし、人間の感情は簡単には切り替わりません。撤退を決めることが、自分の過去の判断を否定するように感じられるからです。
事業を続ける勇気だけでなく、事業をやめる勇気もまた、経営には必要なのです。
人間は未来を正確に予測できない
私たちは、過去の出来事を振り返ると、その結果が最初から予想できたように感じることがあります。
「あの会社は、いずれ倒産すると思っていた」「あの投資は、最初から危険だった」「成功する人は、最初から何かが違った」
しかし、実際にその出来事が起こる前には、さまざまな可能性が存在していたはずです。結果を知った後で、過去の不確実性を小さく見積もってしまう傾向は、後知恵バイアスと呼ばれます。
この思考の癖は、失敗から学ぶことさえ難しくします。失敗した理由を一つの明快な物語にまとめることで、偶然や予測できなかった要因を見落としてしまうからです。
経営でも投資でも、結果が悪かったからといって、必ずしも判断の過程が間違っていたとは限りません。反対に、結果がよかったからといって、判断が優れていたとも限りません。
良い判断と、良い結果は、必ずしも同じではないのです。
突破ラボがこの本を紹介する理由
ここからは、突破ラボ独自の考察です。
人生には、判断を誤ったと感じる瞬間があります。事業に失敗したとき。投資で大きな損失を出したとき。借金を抱えたとき。信用していた人に裏切られたとき。
人は、その原因を自分の能力不足や運の悪さに求めることがあります。しかし、『ファスト&スロー』を読むと、別の視点が見えてきます。
人間の判断には、誰にでも共通する認知的な偏りがあります。知識が豊富な人でも、経験を積んだ人でも、その影響から完全に自由になることはできません。
重要なのは、自分は間違えないと思い込むことではなく、自分も間違える可能性があるという前提で判断の仕組みをつくることです。
例えば、経営判断であれば、計画を実行する前に失敗した場合を想定してみる。投資であれば、購入する理由だけでなく、購入しない理由も書き出してみる。大きな借入れを検討する場合には、最も楽観的な売上予測ではなく、売上が伸びなかった場合の返済可能性も確認する。
こうした工夫によって、思考の偏りを完全に消すことはできなくても、その影響を小さくできる可能性があります。
そして、もう一つ大切なことがあります。それは、過去の判断を評価するとき、結果だけで自分自身の価値まで決めつけないことです。
失敗した判断は反省する必要があります。しかし、失敗したという事実だけで、その人の人生全体が失敗だったと決まるわけではありません。
自分の判断を疑うことは、自分自身を否定することではありません。
むしろ、自分の思考の限界を認めることが、次の判断を改善する出発点になるのではないでしょうか。
最後に|自分の頭脳を、どこまで信用できるか
『ファスト&スロー』は、人間の思考がいかに優れているかを説明すると同時に、その限界を明らかにする本でもあります。
私たちは、世界をありのままに見ていると思っています。しかし実際には、限られた情報から素早く意味をつくり、そこに自分なりの物語を当てはめています。
その能力があるからこそ、複雑な世界の中で日常生活を送ることができます。一方で、その能力が判断の誤りを生むこともあります。
では、どうすればよいのでしょうか。
すべての判断を疑い続けることは現実的ではありません。しかし、人生を大きく左右する判断については、直感だけに頼らず、意識的に立ち止まる価値があります。
自分が正しいと強く確信しているときほど、その確信は何に支えられているのか。
そして、自分と反対の結論を示す情報を、本当に公平に扱えているのでしょうか。
書籍情報
書名:『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』
著者:ダニエル・カーネマン
ジャンル:心理学・行動経済学・意思決定
おすすめの読者:経営者、投資家、意思決定の質を高めたい人、自分の思考の癖を理解したい人
※本記事は書籍の内容や関連する行動経済学の知見を踏まえた独自の解説・考察です。研究によって効果の大きさや再現性に議論がある論点も含まれており、著者の主張と突破ラボ独自の解釈を区別して紹介しています。